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埼玉県児玉丘陵 金鑽御嶽山(343.5m)

 岩山展望台から見た金鑽御嶽山
  

【日付】2021年04月07日(水曜日)
【メンバー】 礒田武志: 単独 新座市の新型コロナウイルス累積感染者数682につき
【行動日程】      
【交通】アクセス
(往 路)志木(東武東上線)08:35⇒09:25小川町09:28⇒09:44寄居(八高線)10:05⇒10:35丹荘→10:40丹荘駅前バス停(朝日バス)10:45(10:44)⇒10:53新宿(しんしゅく)
(復 路)寄島(よりしま)14:05(14:01)⇒14:12丹荘駅前→丹荘14:17⇒14:43寄居15:05⇒15:21小川町15:22⇒16:09志木

【コースタイム】 
 新宿バス停10:55→11:22渡瀬登山口→11:54御嶽山343.5m・昼食12:14→12:24岩山展望台12:30→12:36鏡岩→12:46蓮池鏡岩分岐→蓮池→蓮池鏡岩分岐13:08→13:10金鑽神社13:12→13:28寄島バス停
[歩行時間(休憩を含む)]  2時間43分

【コメント】
1. 動機 
 コロナ禍の中、コロナ太りし、筋力が衰えたので回復しなければと思っていた。昨年初夏に久曾神さんから「埼玉の山に登っていますか?」との指摘とともに「日本山名総覧18000の山」にのせられている埼玉の山201の紹介を受けた。そのなかの未踏・未記録の山に登ることとした。先般、同じ北武蔵台地児玉丘陵本庄台地の浅見残丘(大久保山)を登ったので児玉丘陵未踏の御嶽山(みたけやま)343mを目指すことにした。なお、信頼できる昭文社の「山と高原地図1998年版」や山と渓谷社の「分県登山ガイド10埼玉県の山1996年初版3刷」に北武蔵台地の山崎山、諏訪山、大久保山(浅見山)、御嶽山の記載はなかった。御嶽山も登りがいのある山だろうか。

2. 天気・気温・体調・装備
2.1. 天気・気温
 7日朝の天気予報では、「本州付近に高気圧が張り出し、関東地方は晴れますが、夕方以降は一部でにわか雨がありそうです。最高気温は平年並みか高いでしょう。神川町 曇のち晴 最高18℃[+4]最低7℃[+3] 降水確率10%10%0%0% 風 西の風後北の風」であった。なお当日の天気は予報通りで最高最低温度は21℃、4℃との報告であった。

2.2. 体調
 新宿バス停から渡瀬登山口までの里歩きで体調を事前チェックした。どこも問題はない。もちろん標高差も約200mと少なく、整備された徒歩道や神社参道を初夏の快適な天気のもとに歩けたので行動中も好調であった。なお新規コロナウイルス流行中であるから後期高齢者二年生の私は電車・バス内、駅などの人混み、対面になる場合はマスクをかけた。ワクチン接種はいつになるのだろうか。

2.3. 装備
 一般的ハイキング装備で十分であった。トレッキングシューズで足拵えしていたので渡瀬登山口から「近道」の登りも、御嶽山頂上からの下りロープ場にも対応できた。日焼け防止のため帽子、長袖シャツ・長ズボンを装着した。

3. コース
3.1. 見どころ
・展望 岩山展望台の最高点に登ると360度すなわち関東平野、関東平野北端の山々、近くのの御嶽山、西上州や奥武蔵の山々の展望がある。
・三角点マニア 御嶽山山頂の桝に真鍮ペナントが埋設されている
・信心、もちろん武蔵二ノ宮である金鑽神社、参道にある多宝塔、岩山展望台下の石仏群とお堂(社?)を訪ねて礼拝祈願するのもよい。今回、子宝薬師には参拝できなかったが後期高齢者には必要ないか…
・遺跡・歴史的建造物 
 金鑽御嶽山は山城跡 古代に児玉党が支配し、中世には丹党の安保(阿保)氏が築城し、最後は戦国時代の名将、武田信玄が北条氏と合戦して落城させたという。これまで知らなかったというと山城フアンに叱られるかもしれない。
 金鑽神社の多宝塔 阿保郷丹荘の阿保弾正全隆が寄進したもので埼玉県有数の古建築で国指定重要文化財。
 法楽寺跡 明治の廃仏毀釈によるというが石仏群と広場しか残っていない。文化史に思いを。
 
自然・動植物
・鏡岩 昭和31年7月19日国指定の特別天然記念物 約1億年前に八王子構造線ができた時の断層活動の滑り面である。高さ約4m✕幅9m、約30度の傾斜の赤鉄石英片岩の露頭で光沢がある岩面となっている。
・蓮池 バードウオッチングに良い遊歩道にある。

3.2. 安全・ハザード
3.2.1 道迷い
 道標、ハイキング用マップ看板が整備されている。金鑽神社から登れば御嶽山山頂までまず迷うことはない。今回、渡瀬登山口から登ったが徒歩道を歩む限り問題ない。

3.2.2. 薮・倒木
 登山道にかかるような薮はなかった。鏡岩近くに階段を塞ぐ楢(櫟?)大木が倒れていた。倒木をよけて登り降りできる道ができている。

3.2.3. 岩場・急坂
 御嶽山山頂部は山城跡らしく男道という急坂岩場がある。また山頂「近道」は少し長めの急坂岩場である。いずれもロープが下がっているので活用できる。もちろん女道を選べは急坂岩場はない。

3.2.3. 気温・衛生害虫
 春であったので爽やかさを満喫できる気温であった。不愉快な薮蚊など衛生害虫も発生していなかった。

4. 歩いてみての感想
・目的である金鑽御嶽山をハイキングできたのは嬉しい。これで埼玉の山201も残りが39になった。ところで御嶽山は金鑽神社に参詣された方がついでに足を延ばす楽々の山になっているようだ。標高差もなく短距離でコロナ太り解消、脚力回復には役立ちそうもなかった。
・目標とした丹荘駅を出発して新宿バス停から御岳山に登り岩山展望台と金鑽神社を経て寄島バス停まで歩き丹荘駅に帰ってくるループコースを歩くことができた。公共交通機関を活用し登頂できることを確かめられたのは嬉しい。
・金鑽神社のご神体が御嶽山とは違う山であると帰宅後知った。奥宮があるのかしらん。確かめなかったのが残念だ。
・御嶽山城や金鑽神社の多宝塔は武蔵七党の丹党の一派の安保(阿保)氏が関係しているという。1960年、70年に安保反対と叫んだり、関西風に阿呆と言ったりした身にはすこし後ろめたい気がする。時間があれば安保(阿保)氏について調べてみたい。
・御嶽山城は武田信玄が落城させたとのことだ。戦国時代の武蔵(埼玉県)を調べなくては

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(写真 礒田武志)
 
 5. 記録
5.1. 新宿(しんしゅく)から渡瀬(わたるせ)登山口まで
 新宿バス停に着いた。下車して周囲を見回し地形図の新宿地区と照合する。新宿バス停の位置は地形図の新宿と違う。丹荘の方へ帰るか、それとも左手(南東)の山を巻いてみるかと一思案してコンパス確認をして南西に進むこととした。里山は新緑、芽が開いたばかりで多様な緑のパッチで覆われている。歩道脇の叢にはスミレ類、カキドオシ、ムラサキケマン、草苺などの紫や白の草花が咲いていた。御嶽山ハイキングマップ看板を見つけて現在地を確認する。なんとR462を南西に新宿集落を過ぎている。丹荘の方へ帰ったら神流川橋からのR22に出くわしたのだが、もうここでは渡瀬登山登山口が近い。一安心して朝日工業工場のプリミティブ壁画を眺めながら歩む。地形図にも工場が車道と神流川との間にあると確認した。朝日工業工場が終わり本町の一般市街に入る。山の麓沿いの左折路へ進んだらどうだろうかなどと考えつつ、次の「こだま神川CC/子宝薬師入口」看板でで広い車道へ左折した。変則十字路で民家集落の中へ右折して西(神流川対岸)を振り返る。丘陵は新緑で萌えあがっている。集落の道は山から遠ざかるようなので結局広い車道に引き返した。この道はゴルフ場へ通じているのか、乗用車が下ってきた。鶯のさえずりが一段と増える。薮めいた場所に道標看板があり、近づくとハイキングマップと渡瀬登山口と記した道標が立っていた。

5.2. 渡瀬登山口から御嶽山まで
 渡瀬登山口にある道標によると御嶽山1.0kmとある。入り口こそ薮めいているがすっきりした徒歩道が沢に沿って檜植林の斜面を登っている。シャガの花が道脇を彩る。左下の小沢の水溜まりに新しいヌタバがあった。場所から言ってイノシシのものだろう。沢から離れて植林の中、斜面を巻きつつ登る。植林が檜から杉林に代わる。林床のアオキに赤い実が残っているものが混じる。徒歩道が林道に交差し平坦になる。子宝薬師はどこだろう。道標に従って御嶽山に向かう。0.7km先とのことだ。杉林が竹林化している場所にも出くわす。夫婦桐との標識があった。徒歩道の左下から二本の大木が聳えて幹がなるほどロープで結ばれている。赤い紐でないのが残念である。子宝薬師に夫婦桐か。
 古い石祠を過ぎると別ルートの徒歩道と交差合流する。ここは庚申塔分岐と言おうか、庚申塔が集合して立っている。道標には、御嶽山近道と展望台経由御嶽山と蓮沼への分れとなっている。道標に従って近道をとる。頂上への近道は塔婆石、石碑などに挟まれている。登り尾根にかかる前には薮椿の落花が道を彩っていた。「近道」はなかなか険しい狭い尾根道でロープが設けらた要所が続く。雨時には下りたくない。「近道」を登り終えると巻道(後から思えば女道)と出会う。目前の合流点はロープで思いがけなく遮られて違和感があった。巻道に登ってロープを見ると「一般の方、ここから下降お断り」と説得を受けているようだ。分岐の倒れた道標に従って緩やかな登り道を辿るとすぐに御嶽山343.5mの頂上広場に着いた。三角点標石はないが桝に真鍮ペナントが埋設されていた。山頂標や由緒を記した杭がある。ちょうど正午のチャイムが鳴ったので昼食とした。息を切らせ汗をかいた女性が普段靴で登頂してきた。

5.3. 御嶽山から岩山展望台まで
 由緒を記した杭には「安保氏と関わりの深い中世の山城で、御嶽城山の最高所に位置する本郭から各尾根には郭や堀切が設けられている」と書いてある。安保氏は武蔵七党の丹党の一派ということは事前調査で調べてあったが御嶽山山頂を御嶽城山というとは知らなかった。帰宅したら事後調査をしようと頂上を後にした。なお頂上は樹木で囲まれているので樹木の間からわずかに遠くが望めるだけだ。
 道標を見て山頂から鏡岩へ下る。短い下り坂にはロープが下がっている。下って振り返る。なるほど女性が息を切らせて登ってきたはずだ。山城の本郭防備に役立ったと思う。すぐに女坂分岐になる。下ったのは男坂で「近道」から頂上へ巻いて登ったのが女道と気が付いた。杉植林の中、石祠がある尾根道を歩む。左に下り階段がある。まずは広場の方に直進する。ここでも薮椿が咲いて落花が道を赤く染めていた。椿の先に社がある。広場左手の石仏群の解説をまず読む。「武蔵二宮金鑽神社の三室ケ嶽の南に連なる御嶽山(標高343m)には、かって本山派修験道聖護院末法楽寺の回峰行場があり、「袖すり岩」、「胎内くぐり」と呼ばれる場所が現在でも残っている。石仏は、現在70余体を残すのみであるが、当初はこの一帯に88体配置され、弘法大師巡錫の遺跡である四国88ケ所の霊場を模したようである。巡礼は、江戸時代に最も盛んにおこなわれた。亡くなった親や子を弔ったり、重病や眼病を患う者には特に巡礼が勧められた。御嶽山の石仏の中にも、肉親の菩提を弔うものがある。これらの石仏は、その銘文からほとんどが近辺の武州・上州の人々から寄進されたものであるが、中には遠く江戸から寄進されものもある。法楽寺は、明治維新の神仏分離令により廃寺となる。石仏は、明治末期に御嶽山東の観音山に移され、ここでも毎年盛大な祭りが行われた。その後、大正初期現在の地に移されたようである。石仏に関する地名は、御嶽山周辺に現在でも多く残っている。弁慶岩の下東には、また地蔵石仏の安置されていたといわれる「地蔵穴」と呼称する岩穴がある。また、御嶽山の北西部麓に落ちる滝は、不動石仏が祀られているので「不動の滝」と呼ばれる。御嶽山頂の不動石仏は大不動といわれ、その前の石組は護摩壇であり、かって修験者により柴灯護摩が修行された場所である。平成二年三月(平成26年五月改修)神川町教育委員会」と記してあった。社の背後の岩から男性が話し合っている大声が響いてきた。岩を踏んでアオダモ満開の「岩山展望台」へ登った。山座同定盤や石祠前で高齢男性2人が談話中であったので一声かけて通り過ぎ最高点の岩の上に立った。

5.4. 岩山展望台から鏡岩まで
 岩山展望台最高点の岩上にある頂上礎石から眺めた。文字通りの展望台だ。満開のつつじの花の先に新緑が映える平野と山々が延びている。東西南北を見回す。西の御嶽山はわかるのだが周りや遠くの山々を何山と見定められない。山座同定盤にあった子持山方向を展望するが赤城山、榛名なども春霞のせいではっきりしない。岩の麓の声が聞こえなくなり男性の一人が下山していったことが分かった。岩を下りかけてみたら足元に真鍮ペナント、ここにもあると気が付いた。石祠のもとに下って、残った方と少しお話をした。残念なことに先に下って去った方は賽銭を黙って持って行ったとのことであった。お別れして広場に下りお堂(社?)に参拝してコロナ退散家族の健康を祈った。坂を下り、右折して階段を下る。楢(櫟?)倒木を迂回するとすぐに手摺柵で囲まれた鏡岩に着いた。

5.5. 鏡岩から蓮池鏡岩分岐まで
 柵を越して鏡岩に触れることはできないが鏡岩特別天然記念物標柱と傍の説明「御嶽の鏡岩 昭和31年7月19日国指定特別天然記念物 御嶽の鏡岩は、約1億年前に関東平野と関東山地の境にある八王子構造線ができた時の岩断層活動のすべり面である。岩面の大きさは、高さ約4メートル、幅9メートルと大きく、北向きで約30度の傾斜をなしている。岩質は赤鉄石英片岩で、赤褐色に 光る岩面は、強い摩擦力により磨かれて光沢を帯び、表面には岩がずれた方向に生じるさく痕が見られる。岩面の大きさや、断層の方向がわかることから地質学的に貴重な露頭となっている。鏡岩は古くから人々に知られていたようであり、江戸時代に記された「遊歴雑記」には、鏡岩に向かえば「人影顔面の皺まで明細にうつりて、恰も姿見の明鏡にむかふがごとし」とあり、「甲子夜話」にも同様の記述がある。また、鏡岩がある御嶽山の一帯は、中世の山城である御嶽城跡が所在することでも知られているが、鏡岩が敵の目標となることから、城の防備のため松明でいぶしたので赤褐色になったという伝説や、高崎城(群馬県)が落城した時には火災の炎が映ったとも伝えられている。このように鏡のように物の姿を映すということから、鏡岩と言われるようになった。平成9年3月 神川町教育委員会」と記してあるので読んでみて比べれば印象が深い。
 階段は水分にとんだ植林の中にあるので今の季節にはタチツボスミレやマルバコンロンソウなどの大きな群落を見ることができる。東へ曲がり沢沿いの階段道を下る。明るい杉林の中、これもニリンソウの大群落が次々と現れた。階段左に句碑が林立するようになる。右の沢側にもあるが山側には階段に沿って並んでいた。苔や汚れで字が隠れているものもある。十字路に下りつくと蓮池鏡岩分岐となる。

5.6. 蓮池鏡岩分岐から蓮池の上まで歩いて蓮池鏡岩分岐まで
 蓮池鏡岩分岐に降りてきて振り返る。こちらから整備された階段を登り下れば渡瀬登山口から杣道を踏むより楽に御嶽山に登頂できる。ネット記録が多いわけだ。広くて舗装されている道を蓮池に向かう。簡易舗装した上をフカフカクッションの材料で覆ってある。ところどころに野生動物が剝ぎ取ったような傷があるがとても歩きよい。蓮池から流れてくるのだろうか明るい沢が傍らにある。緑をバックに山桜や散り残りの染井吉野を春の日が白く浮かせていた。道標によると「ゴルフ場・渡瀬」へ通じるとある。蓮池につくと、バードウォッチングの方が大きな望遠カメラを覗いていた。「マヒワを見ている」と教えてくださる。左右の林の裾の薮に何羽もいるとのことだ。クッション舗装が途切れ簡易舗装となる。何も変哲の無い植林地になったので尾根手前で引き返す。再び蓮池の傍らで会ったバードウォッチングの方にお礼を言って分かれる。蓮池から蛙声が届く。蓮の芽は見えないが葦の若葉の下にでもいるのだろう。蓮池の向こうには道があり登ってきた庚申塔分岐に延びているらしい。フカフカの散歩道を下って分岐に帰って来た。目の前の金鑽神社に向かう。「みたけ山入口」道標によると頂上まで0.5㎞であった。

5.7. 蓮池鏡岩分岐から金鑽神社を経て寄島バス停まで
 分岐の先はもう金鑽神社である。コロナ禍であっても人影がチラチラ見えた。まずは金鑽神社拝殿前に立ち、礼拝・祈願する。ご神体は背後の山とのことで拝殿の裏に回ってみた。拝殿の後ろに奥殿がある。何を祭ってあるのだろうか。拝殿横に新嘗の奉納だろうか数束の稲がぶら下げてあった。
 参拝を終えた数人の女性の後について参道を下る。まずは木の鳥居を潜る。広い参道になり大きな駐車場が数か所もある。いずれもガラ空きであった。左手に多宝塔に登る階段があり由緒説明がこのようにあった。「金鑽神社多宝塔 所在地 児玉郡神川村二の宮 金鑽神社の境内にあるこの多宝塔は、三間四面のこけら葺き、宝塔(円筒形の塔身)に腰屋根が着けられた二重の塔婆である。天文三年(1534)に阿保郷丹荘の豪族である阿保(安保)弾正全隆が寄進したもので、真柱に「天文三年甲午八月晦日、大檀那安保弾正全隆」の墨書銘がある。この塔は、建立年代の明確な本県有数の古建築であるとともに、阿保(安保)氏にかかわる遺構であることも注目される。塔婆建築の少ない埼玉県としては貴重な建造物であり、国指定の重要文化財となっている。昭和59年3月 神川町」。金鑽神社は「神流川扇状地には九郷用水が開削され、その要所には当社の分社が祀られているが、これらの所在地は武蔵七党の1つ・児玉党の勢力範囲と一致するといわれ、同党からの当社崇敬の様子が見える」。中世になるころには御嶽山・金鑽神社やその周辺は児玉党から丹党の支配に代わってしまったようだ。どのような経緯があったのだろうか。
 階段の近くの斜面にはキンポウゲの群落があった。何年かぶりに見た。右の沢は金鑽川というらしい。橋が架かり欄干にそう書いてあった。大きな石鳥居が二つ連続して立つ。巨大な鳥居を潜って県道R462に出た。ダンプ等が疾走する県道を渡り、北西へ道なりに歩道を歩む。沢を渡り三叉路でR462から北の側道に入る。直進してR22に出た、神流水辺公園とか城峰公園(城峯山は1998年に登ったな)など方向道標がある。この分岐の目印は「金鑽大師」、地形図の新宿地区の南西になる。R22を分岐から北東に歩道を歩く。脇の畑の畔には黄色いタンポポが並んで集まり、東の里山は春の盛り、西の神流川側には鯉幟が泳いでいた。寄島バス停を見つけて一安心し、時刻表を見て14:01発の上りバス便があると喜んだ。それにしても待つ間の陽射しが強かった。
 
(記:礒田武志)