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埼玉県 忍城址~丸墓山(35.7m)

 丸墓山を芝生広場から見る
  

【日付】2021年06月10日(木曜日)

【メンバー】 礒田武志: 単独 
新座市の新型コロナウイルス累積感染者数978、新座市は04/20~06/20まで蔓延防止等重点措置地域に、06/02から75歳以上ワクチン接種予約開始

【行動日程】      
【交通】
(往 路)志木東武東上線急行(小川町行) 09:19-10:10小川町(埼玉)10:14-10:30寄居秩父鉄道(羽生行)10:40-11:17持田

(復 路)北鴻巣湘南新宿ライン(平塚行) 15:30-15:56大宮(埼玉) ≪直通≫ 15:57-16:02浦和京浜東北線(桜木町行) 16:08-16:11南浦和武蔵野線(府中本町行) 16:20-16:30北朝霞/朝霞台東武東上線準急(森林公園行)16:36-16:38 志木

【コースタイム】 
持田駅11:18~11:41東照宮~11:48忍城址(昼食)12:06~12:21水城公園入口~12:28佐間天満宮~12:48さきたま風土記の丘古代蓮の池道標~13:07丸墓山古墳~13:18稲荷山古墳~13:43さきたま緑道14:57~15:01北鴻巣駅 [歩行時間(休憩を含む)]  3時間43分

【コメント】
1. 動機 
1.1. 埼玉県の最低山を踏破したい
久曾神さんから紹介された「日本山名総覧」に丸墓山の名前はない。 有名な三省堂刊「日本山名辞典」によると、埼玉県の「三角点、等高点による最低山」は丸墓山(二等三角点”埼玉”35.7m) である。

1.2. 映画「のぼうの城」にあった石田堤を歩きたい。石田三成は丸墓山に陣を張って忍城を水攻めにしたという。本墓山への参道が石田堤だ。

1.3 さきたま古墳公園を一度は回りたい
本墓山は日本最大級の円墳、忍城址も展望できる 。「稲荷山古墳」は国宝金錯銘鉄剣が出土した。

1.4. さきたま緑道 千本桜で有名。夏でも緑の並木で日影が続くに違いない。

2. 天気・気温・体調・装備
2.1. 天気・気温
10日の行田市の天気予報では「晴 真夏日 最高31℃、最低18℃ 降水確率06-12時0%、12-18時10%、東の風後南東の風」であった。翌日のレポートでは最高32℃と予報より高かった。

2.2. 体調
7月並みの暑さということで熱中症を警戒して歩いた。幸運にも要所の神社、城址、公園ならびにさきたま緑道には木陰が豊富で体温の上昇を防ぐことができた。 

2.3. 装備
一般的街歩き装備で十分であった。スニーカーで持田駅から一般道、さきたま古墳公園、さきたま緑道を経て北鴻巣駅まで歩いて何の問題もなかった。ただ日焼け止めを顔に塗り、麦わら帽子、長袖シャツ・長ズボンを装着して夏日の太陽に備えた。

3. コース
3.1. 見どころ
・展望 丸墓山は標高がたったの35.7mであるが行田市最高峰だ。石田三成が水攻めに際して山頂に陣を張ったと伝えられるくらい展望がある。三角点があるのは当然か。

・三角点マニア 丸墓山の頂上に二等三角点「埼玉」がある。ただ「汚」と記してあるコンクリート蓋が被さった桝の中にあるので見ることができない。

・信心、忍城址の周りには東照宮、佐間天神社など徳川氏や成田氏に関係する神社がある。参拝されて祈願するのもよい。

・遺跡・歴史的建造物 もちろん「さきたま古墳公園」の9基の古墳、映画「のぼうの城」で紹介された忍城の城址、忍藩に関係ある神社仏閣、また足袋などを始めとした古い行田の商家、街並みもある。  

・自然・動植物
・桜 さきたま古墳公園のなかでも丸墓山は桜の名所と言われている。もちろんさきたま緑道武蔵水路の千本桜の並木も有名。

3.2. 安全・ハザード
3.2.1 道迷い
忍城址もさきたま古墳公園も現在は車で訪れる場所になっている。秩父鉄道の持田駅から忍城址まで国土地理院の地形図を頼りに歩いてみたが、地形図記載と現状とは異なっている箇所があった。もちろん道標もない。道迷いではないが余分な時間と心配をした。

3.2.2. 薮・倒木
城址、神社、公園、緑道およびそれらを結ぶ歩道や遊歩道はよく整備されて障害物はない

3.2.3. 岩場・急坂
丸墓山古墳と稲荷山古墳の10~15mの登り下りが急坂といえるかもしれない。階段が設けられているのでゆっくりと進んで山頂で休めば展望を楽しめる。

3.2.4. 衛生害虫
梅雨前であったが虻蜂をはじめ不愉快な蚋、薮蚊などに会わなかった。

4. 歩いてみての感想
・丸墓山の三角点を確認できたのは嬉しい。これで埼玉の最低山をまずは歩き切ったと思った。ところがネットでは浦和(南与野駅西)にある本杢古墳が2等三角点で19.8mとのこと、最低山歩きも奥が深い。後期高齢者の暇つぶしだが。
・恐れ多くも稲荷山古墳を歩んで生まれて始めて前方後円墳の上に立った。85歳を過ぎたら阪南の古墳群を辿ってもいいなと欲が出た
・花巡りなら桜シーズンに北鴻巣駅からさきたま緑道を経て丸墓山まで歩かれたらどうだろうか
・今回は全ての博物館を敢えてスキップした。次回は博物館めぐりをしたいと思う。もしかしたら古墳時代より前の時代の知識を仕入れることができるかもしれない。
・駐車場は忍城址近隣の市役所付近、水城公園、さきたま古墳公園、さきたま緑道のいたるところにある。持田駅から北鴻巣駅まで歩くのは酔狂。

(記 礒田武志)

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(写真 礒田武志)

 
 5.記録
 5.1.持田駅から東照宮まで
  秩父鉄道の持田に到着してホームに下車した。上下線の列車が発車するのを待って線路を渡る。持田駅は無人なので切符を箱に投げ入れて駅の外に出た。駅は住宅街の中である。自転車駐輪場が線路沿いに長く続く。常慶院近くでようやく駐輪場が空いてきた。通勤通学のための持田駅なのだろう。城西公園入口で秩父鉄道と分かれる。直進して予想外の三差路となった。地形図では広い直進路がある十字交差点のはずだが南北しか行けない。まずは側溝の水の流れに従って北に進んだが道が西(持田駅方向)に向かうので引き返す。三叉路を南へ、次いで狭い道を東へ進んだ。足元に行田縁切り橋由緒の黒の石碑がある。北に見える広い道へ出て東へ向かい直進したら神社の森のような場所に出た。南に見える県道に出て東へ、3棟の山車倉らしい建物の前を過ぎてどうにか東照宮に近づいた。鳥居が立つ東照宮諏訪神社入口から東照宮境内に入る。お参りされている女性の方がいらっしゃる。まずは東照宮本殿に参拝して境内を少し歩いてみた。脇社・摂社が多数ある。忍藩松平10万石のお蔭であろう。三角点があるはずだが目に入らなかった

5.2.東照宮から忍城址へ
  県道を跨ぐ陸橋を渡って忍城跡へ向かう。博物館入口前を通り過ぎて東へ、交差点で右折して南へ堀沿いに歩む。まずは堀越しに小さな櫓、次いで立派な多層(三層?)の櫓が見えた。櫓前に忍城址(公園?) 入口がある。家族連れが堀にかかる橋の上から鯉の姿を追っていた。城跡に入りたい気持ちを抑えて今日は通り過ぎることにした。堀の南端にあるパーゴラのベンチで櫓を見ながら行動食をとる。昼食中、堀の東にある横断歩道へ細道から数組が出てきて城址入口の橋に向かうのを見た。

5.3.忍城址から水城公園を経て佐間天神社へ
  城跡に向かう人達が出てくる道に入ると忍城址案内図があった。なるほどこの狭い道が主要アプローチなのだ。広い車道に突き当たるとT字路となる。周りは役所・文化会館など行田市の枢要な建物がある。大きな駐車場がいくつも見えた。皆様はここから城址に向かわれているのだ。車道を右折して南へ向かうと行田市役所前バス停があった。
  道なりに南へすすむと公園らしいたたずまいとなる。駐車場出口との道標があるがまだ水城公園はどこと示すものはない。大きな池に出会う。ヘラブナ釣りの人たちが岸辺に竿を出していた。この池が地形図の水城公園だろうと見回していると県道を渡った東側に 水城公園と記した大きな標柱が立つているのを見つけた。水がない公園の林の中へ入り東に歩く。気になっていた地形図の碑は慰霊のためだった。近くには西南戦争から第2次世界大戦までの戦死者の氏名を刻んだ碑もあった。慰霊碑の背後ではムクドリの群が騒ぎ、近づくと逃げ惑う。神社の境内に入ると正木丹波守利英の由緒を記した看板と向かい合って伊奈利神社があった。稲荷社の背後にははるかに大きい佐間天満宮が見えた。社の案内看板には佐間天神社とある。この辺りの町名が天満だったり、佐間であるのはこの神社に由来するのだろう。

5.4. 佐間天神社から丸墓山まで
  神社を出て県道R77を道なりに南東に進むと県道R66との交差点になる。見上げると佐間と記してあった。R77をさらに直進した。忍川にかかる橋を渡る。橋の向こうは湯本温泉と記したビルがあった。その先には武蔵水路が流れ野合新橋がかかり、大きな交差点がある。橋を渡った交差点の隅に「 さきたま風土記の丘古代蓮の池」道標が立っていた。
  車道を渡った北側に「さきたま古墳公園」案内図看板があった。案内図を参考にさきたま広場を北に道なりに歩み、十字路に着いた。ここにある「さきたま古墳公園案内図」看板には古墳時代の草本木本など説明が書いてある。北へ向かい、埼玉用水路を渡って古代植物広場に入った。草地にはネジバナがピンクの花茎を伸ばし、外来種のヤセウツボが茶色の茎を立てていた。緑の木々に覆われた丸墓山が見えてくる。午後の強い陽射しの中、丸墓山の麓から石田堤の西側まで草刈り作業の最中で草刈り機の音が響き合い、水蓮池や蓮池の周りは丈の高い芦に囲まれヨシキリがギョギョシと囀っていた。丸墓山登山口から桜並木に入ると石田堤の説明があった。石田堤の果ての階段下に丸墓山古墳説明看板がある。説明を読んで階段へ向かう。丸墓山の標高は36.7mだが階段から頂上まで約19mという。段数は85余、平均段差20㎝と足弱の高齢者向きだ。桜などに囲まれた平坦な頂上に着くと直ぐに三角点「埼玉」が入っているという桝を探した。三角点マニアの間では有名な汚水用コンクリート蓋を見つけて、これで埼玉県三角点最低山(山名辞典による)に登ることができたと一まず安心・満足した。平坦な頂上を見回せば水攻め主将の本陣にしては狭い。物見台ではなかったのかと思う。頂上の東端の木の根元にある「丸墓山から忍城方向の展望図・絵図の写し」看板を見ながら丸墓山から忍城の方向を石田三成になったつもりで展望した。

5.5.丸墓山からさきたま緑道まで
  稲荷山古墳に近い北側の階段へ向かう。この階段の上からも次の芦原(薮)が見える。円墳の周りに環濠があったのではとも思う。階段下の遊歩道は涼しげな林に入る。泰山木が白い大輪の花を幾つも開いていた。公衆便所があるので覗いてみてついでに用を足した。公園の整備に驚嘆する。林を出ると草地となり、階段下に予想した通り稲荷山古墳説明看板があった。階段数は丸墓山より少ない。稲荷山古墳の頂上には礫槨の模型がある。上から見ると遊歩道は前方後円墳の中央を貫いていた。墳頂からまずは丸墓山を、次いで将軍山古墳を望む。丸墓山から稲荷山を見なかったのをちょっと悔やむ。後円部を下り、復元されたという前方部を通り抜け芝生広場に降りた。丸墓山をこちらから見ると美しい。稲荷山や丸墓山を造った首長や人々の集落は近くにあったのだろうか。次に博物館巡りをして答えを見つけたい。細い埼玉用水路を渡って二子山古墳へ向かう。二子山古墳の堀の周りには柵が設けられ、幾つもある堀に入る踏み跡には立ち入り禁止と書いてある。二子山古墳の外側も除草作業が行われ草刈り機を携えた方達だけでなくミニ農業車両も動いていた。道標から二子山古墳を振り返った後、県道を渡り奥の山・鉄砲山へ向かう。県道からは細い生活道となり、また道迷いかと思ったが手作り道標に従って鉄砲山古墳の傍に出ることができた。ここからは森の中の遊歩道になる。踏み跡が縦横についているので最適ルートがあるに違いないが、初体験の礒田は鉄砲山古墳と奥の山古墳を右(北西)に認めつつ遊歩道をぐるりと回ることしかできなかった。森の切れ目から舗装道路に出て道標に従ってさきたま古墳公園からさきたま緑道へ向かう。時折、雉の叫び声が響く。

5.6.さきたま緑道を通って北鴻巣駅まで
  さきたま古墳公園から武蔵水路まで緑道が延びている。並木道に入るとさきたま緑道案内図あった。この道もさきたま緑道の一部とのことであろう。緑道の本道と合流する頃、目の前を雄雉が走って植え込みに隠れた。のどかなものだ。さきたま緑道には予想通り木陰が続いていた。歩道を往来する人、ベンチで休む人、また自転車道を走り抜けるライダーにも出会う。緑道の東では田植え作業のトラクターが動き、早苗が行儀よく並ぶ田にアオサギが立ち、田起こしが終わり水を張られた田の畔では親ガラスが巣立ちしたばかりの子ガラスに餌を口移しをしていた。緑道は歩道と自転車道が縄のように撚られ、所々で外部車道と交差している。要所に公衆便所もあり心配がない。
  堤根二連地下道を通る。頭上は国道18号バイパスでトンネル内部の壁には郷土に因んだ絵や文章が記してあった。次第に緑道を散策する方が増えてきた。緑道も集落に接するようになると民家から伸びる棗の木に目立たぬ小さな黄花が着いているのを見た。子供のころを思い出す。そう言えば緑道の並木にも泰山木の大輪の白花やシデの花房など旬の庭木を先ほどから目にしている。集落を外れると広くて平坦な関東平野を実感できる田畑となるが上越新幹線の高架が田園を遮断する。高架に沿って南東へ道なりに歩き、円福寺の入口でさきたま緑道との道標に従って高架を潜る。次第に「市街地に近づいた」というたたずまいになる。歩道が並木道から高架下の道になり、今度は歩道が元荒川を跨ぐ。どこで武蔵水路と分かれたのだろう。さらに進んで高架歩道から国道17号を見下ろすとさきたま古墳公園へ車を案内する道標が立っていた。高架歩道の手摺にはチガヤが白穂を並べてお迎えをしてくれている。しかし人とは全く出会わない。さきたま林道を漫歩されていた方々はどちらからおいでになったのだろうか。歩道にある「古墳公園4.1km」と、次にであった「北鴻巣駅」道標を見て駅へ向かう。再会した武蔵水路の上の高架道を西へ渡って赤見台の団地へ入った。団地の中を道なりに進み北鴻巣駅前に到着することができた。
*
 6.備忘
 6.1忍城 
  忍城は代々国人領主の成田氏の居城であった。成田氏は永禄12年(1569年)の越相同盟によって正式に後北条氏に属することになった。天正18年(1590年)の小田原征伐の際には成田氏長が籠城して石田三成率いる豊臣軍の攻撃を受けたが、落城することはなかった(小田原落城後に開城)。映画「のぼうの城」のモデル
6.2.忍藩 
   関東に入った徳川家康は忍城に、まずは譜代の松平(深溝)家1万石、松平家忠、次いで 四男の松平(東条家)忠吉を10万石で入れた。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで、忠吉は井伊直政と共に島津義弘軍と戦って負傷しながらも武功を挙げたため、尾張尾張藩52万石に加増移封された。その後しばらく、忍藩は廃されて天領となり、代官が治めた。
 その後、忍藩が復活して譜代の松平(大河内)家3万石、松平信綱→譜代の阿部家 5万石→6万石→8万石→10万石、阿部忠秋~正能~正武~正喬~正允~正敏~正識~正由~正権→譜代の松平(奥平)家 10万石、松平忠堯~忠彦~忠国~忠誠~忠敬 と続いた。
 6.3.縁切橋 
  行田の伝説 忍城主成田氏長は妻の実家上州太田金山城主横瀬成繁と不仲になり、ついには妻との離婚を与儀なくされたと伝えられている。氏長はここにあった橋から妻を見送ったという伝説がある。記録にはないが、それにちなんで橋を縁切橋と呼んだと伝えられている。平成二十五年五月 建立 行田ライオンズクラブ
 6.4.佐間天神社 
  正木丹波守利英ゆかりの地 天正十八年(一五九〇年)に石田三成軍の忍城攻めの時、忍城主成田氏長重臣正木丹波守利英は「佐間口」と呼ぶ場所で守りを固め、死闘を繰り広げたと伝えられています。佐間天神社付近はちょうど「佐間口」にあたり、正木丹波守利英の屋敷も当地にあったと伝えられています。佐間鎮守天神社
 6.5.さきたま古墳公園   
  9基もの大型古墳群がある公園で、国宝金錯銘鉄剣が出土した「稲荷山古墳」のほか、日本最大級の円墳とされている「丸墓山古墳」は公園一番の桜スポットになっています。また、公園のある行田市埼玉(さきたま)が「埼玉」という地名が生まれた場所だと言われており、園内には埼玉県名発祥の碑があります。
   "行田市の市街地から南東へ2.5kmにある「古墳群」は、大型古墳が集中していることで全国的に有名で、昭和13年8月に国の史跡として指名を受け、「さきたま風土記の丘」として整備、活用されてきました。  埼玉県が古墳群の整備を進める中で、稲荷山古墳は昭和43年に発掘調査され、金錯銘鉄剣・帯金具・勾玉等が出土し、昭和58年に国宝に指定されています。他の古墳も、丸墓古墳(日本一大きな円墳)・二子山古墳(武蔵国で最も大きな前方後円墳)・将軍山古墳(実物の横穴式石室を見学できる我が国初の施設)等で多くの副葬品が出土しています。 "昭和51年4月に、これら古墳群との調和のとれた、鑑賞、保護及び散策を目的とした公園を整備し開設されており、現在も拡張整備を進めています。

  埼玉古墳群(さきたまこふんぐん)の一基が丸墓山古墳。直径105m、高さ18.9m、日本最大規模の円墳で、稲荷山古墳同様に上ることができ、墳頂からは、隣に稲荷山古墳、さらにその先に将軍山古墳が眺望できます。映画『のぼうの城』で有名になった忍城の水攻めの際に、石田三成が陣を構えた場所としても注目を。 "三成は備中高松城水攻めに倣い、丸墓山古墳を含む全長28km(一説には14㎞)の堤防(石田堤)をわずか5日間で築き、利根川と荒川の水を流入させたといわれています。駐車場から古墳へと続く(古墳の南側)一段高い桜並木は石田堤の一部です。

  丸墓山古墳の山頂に、コンクリートの蓋がありますが、内部には二等三角点「埼玉」が設置されています。 三角点があるのは眺めのいい証拠で、正確な標高は標高は35.69mになっています。 行田市最高峰がこの丸墓山。二等三角点で点名は”埼玉”。標高は35.7m。
 6.6.古墳時代の草本・木本
   奥の山古墳及び鉄砲山古墳の周堀を調査し、周堀に体積の花粉化石分析を行った結果、古墳時代に樹木や草本の生態が明らかになりました・「古代の森」や「古代の草原」は、古墳時代の代表的な古代の草木を植えています。特に「古代の草原」には、実際に算出したものをそのまま植えてあり、古墳時代の景観のイメージを創造しています。
キツネノカミソリ、シオデ、コオニタビラコ、カラマツソウ、ミソハギ、カントウタンポポ、ツリガネニンジン、クルマバナ、オバナ、ワレモコウ、ノカンゾウ、クララ、オミナエシ
コウヤマキ、スダジイ、クロマツ、スギ、ヤブツバキ、タチバナ、シラカシ、アカメヤナギ、オニグルミ、イボタノキ、イヌシデ、アカシデ、ハンノキ、コナラ、クヌギ、ケヤキ